「東京うど」地下で育まれる純白の山菜
戦後、うどの一大産地に成長した立川市
立川駅から車でおよそ10分、五日市街道沿いを走ると「うど」と大きく書かれた「鈴木園」の看板が見えてくる。300年の歴史がある農家で、18代目を継いだ鈴木博秀さんが迎えてくれた。
さっそく案内されて園内の小屋に入ると、毛布やゴザが重ねられた一角が目についた。毛布をめくると、鉄格子で蓋をされた直径約1メートルの縦穴が現われた。3メートルほどの深さだろうか。
はしごを使って底へ降り、ヘッドライトを点けると横穴に密生する真っ白いうどが照らし出された。立川市の特産品「東京うど」である。「ちょっと不思議な光景でしょ?」鈴木さんが誇らしげな表情を見せる。
うどは大きく「山うど」と「軟化うど」にわけられる。いずれも春先から4月ごろまでが“旬”の時期にあたる。しかし、その見た目は対照的で、青々として野性みのある山うどに対して、軟化うどは透き通るような白い表皮をしている。
こうした見た目の違いは、栽培環境が関係している。市場に出まわる山うどは自生する天然物か、ビニールハウスや路地で栽培されたものだ。一方の軟化うどには、日光をさえぎる「軟化栽培」が用いられている。光合成を抑制することで、葉緑体に含まれる色素である葉緑素による「緑化」が促進されず、うどの茎がやわらかくなる。もやしのように真っ白いまま成長し、シャキシャキとした食感が楽しめるが、山うどよりもえぐみがなく、さっぱりした味わいになる。
軟化うどのなかでも、東京都内でとれたものだけが「東京うど」のブランド名で流通する。立川市をはじめ、武蔵野市、国分寺市、小平市などの北多摩エリアで栽培が盛んだ。軟化の手法も時代の移ろいとともに進化してきた。
東京のうど栽培の歴史は、江戸時代にまでさかのぼる。文化年間(1804~1818年)、尾張地方からうどの根株が持ちこまれ、現在の武蔵野市を中心に産地が広がった。当時は、畑に植えたうどのまわりに土を盛って日光をさえぎる「盛土軟化」による軟化栽培が主流だった。しかし、うどの栽培に最適といわれる気温17~18℃を保ちにくいため、収穫期が安定しなかった。
そこで「溝式軟化」が考案された。畑に掘った溝にうどを植える栽培方法で、むしろや土をかぶせて気温を調整する。手間はかかるが、季節による気温差を軽減できる。
昭和20年(1945年)ごろ、武蔵野市の農家が試行錯誤を重ね、地下に掘った穴ぐらで栽培する「横穴式軟化」を確立させる。「室(むろ)」と呼ばれる穴ぐらの中は、気温が保ちやすく遮光性にも優れる。土で汚れにくいため飲食店や八百屋からの評判も良い。やがて、溝式軟化に取って代わるかたちで定着していった。
横穴式軟化が立川市に伝わったのは、昭和30年(1955年)ごろ。ちょうど養蚕業が衰退を迎えていた時期で、うど栽培に鞍替えする農家が次々と現れた。
土壌も栽培に適していた。一帯は、関東ローム層といわれる地質で土に粘り気があるため、室がくずれにくく、手入れに手間がかからなかったのだ。
立川市でのうど栽培は瞬く間に活況を迎え、最盛期には500トン以上の収獲量をあげた。現在に至っても都内一位の収穫量を誇る。近年は、丈が短く持ち運びしやすい軟化うど「立川こまち」も開発し、さらなる販路拡大に取り組んでいる。
山菜のイメージを覆す「東京うど」の滋味
鈴木さんがうどを栽培するようになって、およそ20年になる。収穫期は12月から翌年4月まで。毎年11月末には、年末出荷のために根株を植える「ふせ込み」が始まる。
室の中とはいえ、気温調節にも細心の注意を払う。冬場は室で薪を焚くこともあるという。数週間に一度の水やり以外は、人の出入りも極力控える。風が当たっただけで変色する、と言われるほどうどは繊細だからだ。白く美しい茎は、丁寧に育ててきた“証明書” のようなもの。だから「取材で人が出入りするときは、気が気じゃない」のだという。
根株をふせ込んでから30日から40日が過ぎ、70センチメートルほどの高さに成長したら収穫する。
「12月の出荷を終えたら、保管していた根株を新たにふせ込んで翌年1月の出荷分を栽培します。あとは2月、3月と生産量を調整しながら、栽培と出荷を繰り返す。少量ではありますが、春以外のシーズンも出荷しています」。
うどが育てられている空間は、1メートルほどの高さしかないため、収穫作業も一苦労だ。かがんだままの作業が続くため、脚や腰を悪くする農家も少なくない。鈴木さんは体に負担をかけないよう、手際よくうどを刈り取り、木箱に詰めていく。木箱を引き上げるのは地上で待つ妻・和子さんの仕事。木箱を作業小屋に運びこむと、和子さんがうどの箱詰めに取りかかった。
「日に当たるとすぐに緑化が進むので、収穫後は時間との勝負です。きれいな状態でみなさんに食べてほしいですからね」と、和子さん。
鈴木園の年間出荷数は、およそ4000本。一部は直接契約先へ。残りは地元のスーパーや直売所に並び、家庭の食卓に春を届ける。定番料理は、天ぷらや酢味噌あえだが、和子さんはうどの炒め物をおすすめする。
「食感を楽しむならシンプルな料理が一番。うちでは塩こしょうだけで味つけした炒め物をよく食べています。使い切れなかった分は、新聞紙にくるんで日の当たらない場所に保管するといいですよ」。
山うどやわらびなどの山菜は、あく抜きするのが一般的だが、東京うどはあく抜き不要で生でも食べられる。鈴木さんにうながされて収穫したばかりのうどにかぶりついてみると、シャクっと小気味いい音がして、ほのかな甘みが口の中に広がった。瑞々しく、さわやかな香りが後をひく。
「うどのイメージが変わったでしょ? どんな人でもやみつきにさせる自信がありますよ」と、鈴木さんがその日一番の笑顔を見せた。
立川のうどを世に知らしめた「うどラーメン」
「東京うどは、繊細な味わい。その魅力を壊さないよう料理するのが腕の見せどころかな」。
そう話すのは、立川市にある中国料理店「五十番」の高橋昌裕さん。創業は昭和38年(1963年)、高橋さんが店を継いでから、東京うど料理も提供するにようなった。きっかけは、平成5年(1993年)に五十番で開かれた「東京うど生産組合連合会」の総会だった。
「立川には東京うどが食べられる店が一軒もない」。
そんな組合員の嘆きを聞いた高橋さんは、うど料理の開発に名乗りを上げた。ところが、メニュー開発は一筋縄には進まない。うどを安定供給する体制は整えられるのか、季節によって変動する仕入れ値に対応できるのか――、さまざまな問題に直面する。
「高級料理にはしたくありませんでした。かといって、採算度外視というわけにもいかない。組合員や生産者、料理人仲間と協力しあって、課題をクリアしていきました」。
2年に及ぶ開発期間を経て、完成したのが「うどラーメン」だ。これは広東麺をアレンジしたもの。ラーメンにかかっているあんには、東京うどをはじめニンジンやタケノコ、さやえんどうなど色とりどりの野菜を使用する。
販売するなり、雑誌やテレビで大きく取り上げられ、立川のうどを一躍世に知らしめた。その後も、イカの炒め、サラダ、衣揚げといったうど料理を次々と開発。食材の可能性を切り拓いていった。
「お客さんの“美味しいなあ”とか“面白いなあ”って反応が原動力になっています。うどに限らず、これからも地元農家を応援していきたいですね」。
うどラーメンが誕生しておよそ25年、市内でうど料理を出す店もそれほど珍しくなくなった。スーパーや直売所には、惣菜や調味料、スイーツといったうどを使った商品が並び、地域をあげて東京うどを盛り上げている。これからも世間をあっと驚かせるような、新たなうど料理が現われることだろう。
東京うど
情報提供:鈴木園 鈴木博秀さん“旬”の時期
12~4月
目利きポイント
白くまっすぐ伸びているもの
美味しい食べ方
食感を楽しむならシンプルな食べ方がおすすめ。塩こしょうで味付けする炒め物など。