世界のシェフが注目する「坂網鴨」
年間300羽前後しか獲れない天然鴨「坂網鴨」
「坂網鴨」の猟期は冬の3ヵ月間。猟は雁(がん)や鴨など多くの渡り鳥の越冬地として知られる加賀市大聖寺の片野鴨池周辺で行われる。捕獲量は年間300羽前後と非常に少なく、加賀市外の市場では滅多に出回ることがない。
「坂網鴨」の魅力は、その希少性もさることながら、特筆すべきはその味だ。鮮やかな赤みをもつ「坂網鴨」の肉は弾力があり、鴨肉がもつ独特な臭みもない。そして、この「坂網鴨」の美味しさは国内の一流料亭や世界中の名だたるレストランのオーナーシェフから、熱烈なオファーを受けるほどである。しかし、「坂網鴨」は年間通じてごく僅かしか手に入らないため、加賀市外に卸されることはほとんどないうえ、加賀でも「坂網鴨」を食べられる料亭は数少ない、まさに“幻”の鴨なのだ。
一番うまい時期に無傷で獲る – 「坂網鴨」の美味しさの理由
「坂網鴨」の美味しさの理由をベテランの坂網猟師でもあり、大聖寺捕鴨猟区協同組合理事長の池田豊隆さんに尋ねると「野生の鴨を一番美味しい時に、無傷で捕らえるからだよ」という答えが返ってきた。だが、このシンプルな答えには「坂網鴨」の美味しさの理由が3つ含まれているのだ。
まず1つ目は、「坂網鴨」が完全に野生の鴨であること。餌付けをしていない野生の鴨は穀類を主食とするため、肉と脂のバランスが良くなり、独特の旨味をもつという。
2つ目は、最適なタイミングで猟を行っていること。 坂網猟は、夕方、鴨がお腹をすかせて周辺の餌場へと飛び立つまでの僅か15分ほどの間に行われるという。そのため、捕らえた鴨の内臓には残留物がほとんどなく、 捕獲後も数日間は内臓まで新鮮さが保たれるので臭みが出ない。
3つ目は、猟銃を使わずに坂網と呼ばれる特殊な網を使って生け捕りにしていること。鴨を銃で仕留めると肉に血が回ってしまい臭みが出てしまうが、坂網猟ではそれがない。空中で網にかかった鴨は周囲の木々に引っかかり無傷で捕獲されるため、ジビエ(野生の鳥獣の肉)につきものの臭みとは無縁なのである。 世界中の一流料理人が注目する「坂網鴨」の美味しさは、このシンプルで理にかなった坂網猟法に由来しているのだ。
極めて特殊な古式猟法「坂網猟」
江戸時代に始まり300年以上もの歴史を持つ坂網猟は鴨が丘陵を低く飛び越える一瞬をついて、坂網と呼ばれる網を中空へ投げ放ち、鴨を網にかけて捕らえるきわめて特殊な猟法だ。坂網は木製のY字状の棒の二股に分かれた部分に網を張ったもので、空中の鴨めがけて垂直に投げやすい形状になっている。
暗がりの中で息をひそめ、鴨の羽音を頼りに坂網を空に向かって投げ、鴨を捕らえる。猟師の頭上を鴨が飛ぶのはわずか一瞬。ベテラン猟師でも、そうそう捕れるものではないのだという。
「坂網猟は鴨を観察して、鴨の生態を全て知り尽くしていないとできない。餌場がどこにあるのか、この風向きだったらどっちに鴨が飛ぶのかとかね。向こうも賢いから毎回同じ場所を飛んでくれるわけではないし。それと集中力が大事」と、池田さんは教えてくれた。
風向きに気を配り、鴨の羽音に耳を傾ける。自然と対峙し、常に五感を研ぎすます。鴨との一瞬の邂逅に備えるその所作は、武士の居合道にも通ずるものがあるという。 そもそも、この坂網猟は大聖寺藩主が武士の心身の鍛錬として坂網猟を奨励したことから始まったそうで、居合道と通じるというのも頷ける。
坂網猟師が守り続ける湿地と伝統文化
この坂網猟が300年以上もの伝統を守ってこられたのは、片野鴨池と、そこに集まる水鳥たちの生育環境を大切に保全してきたことが大きい。坂網鴨猟師たちは、毎年交代で猟場の番をして密猟を防いだり、夏頃、湿地に草が増えはじめると、湿地が陸地に浸食されるのを防ぐ為に草刈りをしたりなど、猟期以外でも鴨池の環境保全に余念がない。
鴨池に訪れる鴨の飛来数は年間三千羽ほどだが、坂網猟での捕獲数は全体の1割程度だという。伝統の猟法を守り続けているため、限られた鴨の個体数を捕り尽くすようなことがなく、未来を見据えて維持することができ、湿地の自然生態系を損なうことがないのだ。
こういった、猟師達の活動と自然のワイズユース(賢明な利用)が評価され、1993年に片野鴨池はラムサール条約(水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約)に登録された。
坂網猟の猟師の数も一時はかなり落ち込んだそうだが、加賀市が坂網猟の文化的価値を認め、後継者育成活動を行ったことにより現在では30人近くまで猟師が増えてきたという。猟師になって3年ほどだと言う中村肇伸さんも、加賀市の後押しをうけ、坂網猟の魅力にはまっていった一人だ。
「猟そのものは、非効率的な手法かもしれないけど、伝統を守ることには凄く意味があるし、この文化の担い手であることに誇りを感じています。現在も石川県民俗文化財に指定されていますが、ゆくゆくは国の文化財にも指定されるよう、この文化を守っていきたい」と中村さんは話す。
「坂網鴨」を加賀の伝統料理で味わう。料亭「山ぎし」
取材の終わりに、加賀でも数少ない「坂網鴨」を食べられる料亭「山ぎし」を訪れた。五代目である山岸和伸さん自身も坂網猟師であるため、ここ「山ぎし」では、希少な「坂網鴨」を加賀の伝統料理で食べることができる。
いただいたのは「坂網鴨」のレバーと砂肝のしぐれ煮など、「坂網鴨」を使用した一品料理の数々。中でも注目は加賀の伝統料理である「鴨の治部すき鍋」だ。
「坂網鴨」のガラでとった出汁の風味は豊かで、軟骨を叩いて作ったつくね、胸肉、モモ肉は、歯ごたえがあるのに口の中でとろけていく。肉は鍋に入れる際に小麦粉をまぶして肉汁を閉じ込める工夫が施され、形も美しいままゆであがる。薬味にワサビを入れるが、熱い鍋物に入れると辛さは感じさせず、香りが際立ち、出汁の甘みを引き立ててくれる。
すき鍋の締めくくりには残った出汁をベースにした蓬(よもぎ)そばがいただける。口の中が爽やかな後味で満たされ幸せな気分で「坂網鴨」の余韻に浸ることが出来る。
猟師たちの技と、文化の担い手としての誇りを背景に受け継がれる坂網猟という伝統。そして、その伝統の継承は自然と人の共存関係までも実現させた。
世界の一流シェフに注目されるまでになった「坂網鴨」には美味しさと希少性だけでは語りきれない食文化が存在する。