震災から10年。海里山と人の営みが循環するまちを目指して
目指すのは、海里山と人の営みが共存しながら、生活に必要な資源が地域内で賄えるように備える災害に強いまちだ。そんな南三陸町で、循環型のものづくりを実践する4つの生産者を訪ねた。
史上初。常温で180日間保存可能な「常温笹かまぼこ」
“日本一魚肉タンパク質を愛する男”。そんなキャッチフレーズを掲げ、かまぼこの可能性を追求する「及善商店」代表取締役の及川善弥さん。南三陸町で140年続く、かまぼこ店の6代目だ。及川さんが開発したのは、「常温保存の笹かまぼこ」。宮城県の名物である笹かまぼこは、従来は冷蔵保存が必要で、かつ、賞味期限は一般的に一週間程度。そんな笹かまぼこに革命を起こした。保存料が無添加ながら、常温でなんと180日も保存が効く。2019年にリリースするやいなや、取材と問い合わせが殺到した。
震災前から、若年層のかまぼこ離れが進む状況をなんとかしなくてはと思っていた及川さん。未曾有の大震災が、彼を「常温保存笹かま」づくりに駆り立てた。及川さんは同じ想いを持つ気仙沼の蒲鉾店「かねせん」とタッグを組み、研究開発をスタート。何度も失敗を繰り返していたが、ある時、「どうせ無理だろう」と半ば投げやりに作った試作品に奇跡が起きた。
「突然、常温保存で美味しいかまぼこができたんです。レシピを確認すると“塩”だけを入れて練ったものでした。かまぼこ製造の歴史は約900年あるんですが、そのなかで唯一変わらなかったのが“魚をすり身にして塩を入れる”こと。結局、原則原理に従ったものが一番強くて安全だったんです」と、及川さんは振り返る。
そして2019年、食育を意識し子供向けに「旅するかまぼこ」をリリース。その後、念願の「常温笹かまぼこ」も誕生した。常温で日持ちがするかまぼこは、フードロスの軽減につながり、遠方へのお土産やお弁当にも使うことができる。
「日本一おもしろいかまぼこ屋でありたいです。そしていつか、全国のかまぼこメーカーと協力してかまぼこを宇宙食にするという夢を叶えたいです」と、及川さん。かまぼこの可能性はまだまだ広がっていきそうだ。
海と里の幸が融合。未利用わかめの茎で育つ高級羊「わかめ羊」
わかめは南三陸町の名産品だが、葉とめかぶを削いだ後に残る“茎”の部分は、硬くて食用にするのが難しい。復興支援ボランティアとして南三陸町に来た金藤克也さんは、この茎を使って南三陸名物がつくれないかと考えた。
「友人の肉店から、ソルトブッシュという塩分を含んだ土地に自生する植物を食べるオーストラリアのブランド羊の話を聞いて、南三陸町でもできないかと。それでミネラル豊富なわかめの茎を、飼料にしようと思いつきました」と、金藤さん。宮城大学の協力を得て、2012年末から「わかめ羊」プロジェクトは始まった。
金藤さんが代表を務める「さとうみファーム」では、現在160頭ほどの羊が肥育されている。特製の飼料からは、ワインのような酸を感じる良い香りが漂う。生のわかめの茎を牧草に混ぜることで、水分で自然に乳酸発酵するのだそうだ。発酵することで飼料が1年以上日持ちするうえ、羊の腸内環境を整えて独特の臭みも消えるという。また、旨味成分のイノシン酸が普通の羊より6倍多く、塩コショウのみのシンプルな味付けでもじわりと旨みが感じられる。
出荷数が月5頭程とまだ少なく、オンラインショップでは常に品薄状態。年間120-150頭ほど出荷できるようにして、牧場で働く町民の雇用を安定的に守れるよう収益を上げることが目下の目標だ。
「目的は羊じゃなくて、あくまでも南三陸町の復興。軌道に乗るのはこれからですね」。
南三陸町育ちの「わかめ羊」が、いつか世界で愛される日が来るかもしれない。
小さな椎茸からできたおやつ「椎茸かりんとう」
「椎彩杜(シーサイド)」は、南三陸町で唯一の菌床椎茸農家。常務取締役の髙橋浩幸さんは、津波で施設がほぼ全壊して途方に暮れるなか、残った菌床から懸命に生える椎茸を見て再建を決意したと言う。
「こいつらが前向いてるのに、自分が諦めちゃいけないと思いました」。
ハウスを再建後、風評被害に苦しむなかで生まれたのが、出荷できない小さな椎茸を活用した「椎茸かりんとう」だった。水で戻して粉砕した乾燥椎茸を、小麦粉、おから、米粉をブレンドした生地に練り込み、隠し味に味噌を投入。
「生椎茸だとえぐみが出るので、乾燥椎茸を使って配合を調整しています。半年間試行錯誤してやっと完成しました」と、高橋さん。ほのかに感じる椎茸の風味と甘じょっぱい味わいがクセになるかりんとうは、またたく間にまちの名物となった。
「椎茸農家は意外に手間がかかるんです」。土台となる菌床づくりには、120日もの時間がかかる。雑菌がつかないように注意しつつ、椎茸の菌を育てるのは、とても神経を使う作業だ。椎茸が生える季節は春と秋なので、外気温がマイナスでも、育成室の湿度と温度は一年中一定に保つ必要がある。収穫タイミングは芽が出てから7-10日後。どのタイミングで収穫するかを見極めるのは、スタッフの腕の見せどころだ。
役目を終えた菌床は産業廃棄物となるため、処理するにもお金がかかる。そこで椎彩杜は、全量を農業堆肥として再利用。水を抜いて乾燥させ、周辺農家に無償で譲っている。廃菌床を畑に混ぜ込むことで、良質な土壌にすることができるそうだ。
「うちで作ったものが、どこかにつながっていくとめちゃくちゃいいなって思います」と、髙橋さんは前を向く。
耕作放棄地で藍を育てる。循環で生まれる「あい茶」
東京から移住した中村未來さんは、田束山(たつがねさん)の麓に広がる払川集落の古民家で暮らしながら、農薬を使わずに藍を育てている。畑では3歳になる娘の六花ちゃんも一緒に虫を取ったりと、立派な農家っぷりだ。未來さんの仕事は、使われなくなったものに少しだけ手を加えて、未来へ繋がるようなものづくりをすること。藍畑も耕作放棄地だった場所を耕してつくったものだ。
南三陸町では、「南三陸町バイオマス産業都市構想」の一貫で、回収した生ゴミから液肥を作る取り組みを行っている。未來さんはこの液肥を活用して藍を栽培。殺虫剤の代わりには牛乳スプレーやビールを使う。収穫した葉っぱを取り、乾燥させて保存。藍染商品を作ったり「あい茶」として販売している。染め物のイメージが強い藍だが、実は古くから薬草として食されてきた。
南三陸町への移住のきっかけは、「大変な経験をしたにも関わらず、前向きに生きる地域の人たちにパワーをもらって。こういう方たちのそばにいたいなって思ったんです」と語る未來さん。
震災ボランティアの活動をする中で、縁あって南三陸町観光協会で働けることになり、移住を決意。現在では、「でんでんむしカンパニー」を立ち上げ、観光協会にいる時から始めていた藍畑や、建築の知識を生かして古民家プロジェクトを軸に活動している。社名に藍畑の天敵であるカタツムリの名前を付けたのは、“厳しい自然と共生していきたい”という想いからだ。
「最終的なゴールは、南三陸町が未来に続いていくこと。震災復興だけでなく、このまちにも少子高齢化や空き家問題などの地域課題がある。大好きなまちのためにできることをやっていきたいです」。
今度は未來さんのパワーで、南三陸町が元気になっていくはずだ。
自然は人々に恵みを与え、時に恐怖を与える。南三陸町の人が強くて優しいのは、その両方を受け入れて共生しようとしているからかもしれない。一人ひとりの取り組みが大きな輪になるその日まで。まちの未来を楽しみに見守りたい。
一部写真提供:南三陸町観光協会