生産者と製造業者が支える 十勝産小麦の底力
北海道屈指の小麦産地である十勝地方。日高山脈、大雪山系、さらに太平洋に接するこの地方は、東京と比べて、年間平均気温が10度ほど低く、降水量も少ない。冷涼で湿度の低い気候を好む小麦にとって、適した栽培環境なのだ。
北海道産小麦の伝導者、前田農産
意外なことに、北海道の小麦産地としての歴史は50年ほど。1970年代、食料自給率低下の対策に実施された農業政策を契機に小麦の栽培面積は急増した。
麦作を支え続ける農場の一つが、十勝地方は本別町にある前田農産だ。1899年の北海道開拓時代に本別町に入植し、じゃがいもの加工業を経て、40数年前から小麦の生産に取り組んでいる。
「小麦を作り始めたのは、うちの三代目にあたる父の代から。道内で育成された品種や新しい栽培技術の普及が麦作の発展を後押ししました」。
そう話すのは前田農産の四代目、前田茂雄さん。前田農産は所有する120ヘクタールの耕地のうち、80ヘクタールを麦作に利用している。7月のはじめから8月の終わり、収穫期を迎えた小麦畑は黄金色に輝き、絨毯のように涼風にゆれる。
小麦の収穫期は品種によって、種まきから収穫までが早い「早生(わせ)」、収穫が遅い「晩稲(おくて)」、早生と晩稲の中間期に収穫できる「中手(なかて)」に分けられる。前田さんは、複数の品種を栽培し効率的に収穫している。
「一品種だけを栽培した場合、収穫期が集中してしまいます。栽培面積も広大になるから、収穫も困難。だから、いくつかの品種を使い、収穫時期をずらしているんです。河岸段丘になっている本別町は標高差があって、おなじ品種でも標高によって収穫時期が変わってくる。複数の畑の地質や気温なども踏まえて、計画的に栽培する必要があります」。
小麦の品種が違えば、適切な土壌も違ってくる。前田さんは毎年、すべての畑を土壌分析しデータを蓄積。土壌のバランスを考慮しカルシウム、マグネシウム、ミネラルなどを適切に投入しミネラルバランスの良い土つくりを実践している。
長年培ってきた経験や勘だけではなく、テクノロジーも利用する。トラクターに搭載されたレーザー式の小麦の葉緑素センサーで、小麦の施肥量を調整し、タンパク室含有量を分析。データは栽培の指標として活用しているという。
小麦は、バトンリレーの作物
前田農産の農場では、「キタノカオリ」「ゆめちから」「きたほなみ」「春よ恋」「はるきらり」の北海道を代表する5品種を栽培。小麦粉にしたとき香りが強い品種、甘みのある品種、うどんやお菓子に適した品種などの特性に幅をもたせて、製造業者のニーズに応えているのだ。そして、なかでも前田さんが「北海道のパン用小麦のエース」と評する品種が「ゆめちから」。2009年に登録された、まだ新しい品種だ。
「『ゆめちから』は病気に強く、倒れにくい。収量も期待できます。グルテンを多く含んでいるから、国産小麦ではめずらしい超強力な小麦粉になる。北海道を代表する小麦の一種『きたほなみ』とブレンドすると力強い生地のパンになるんです」。
前田農産の取り組みは麦作だけにとどまらない。オリジナルの小麦粉を「香味麦選」シリーズと銘打ち、東京都内のパン屋を中心に流通してパンになっている。じつはこのスタイルは、地元の農家にとって異例なこと。そもそも、生産者が収穫した小麦は、農協に出荷されるのが一般的。集められた小麦はひとまとめに製粉され、市場に流通する。ところが、前田さんはあえて、独自の販路を広げている。
「規模拡大だけでは日本の農業に勝ち目はそうそうない。私自身も、自分が育てた小麦が果たして美味しいのか?美味しくないのか?必要とされている評価がまずは欲しいと思って、2008年から少しずつパン屋さんにも小麦粉をつかってもらうことになりました。こうして販路を開拓しながら、お客さんの要望を聞くことで、小麦畑で何かできるか?を考えるようになりました」。
前田農産では小麦の収穫機、乾燥、選別、貯蔵用の設備を自前で用意。北海道産小麦の普及の立役者でもある株式会社江別製粉に製粉委託し、通年出荷できる体制を築いた。
「小麦はバトンリレーの作物なんです」と前田さん。
病気や収量、美味しさを追及する育種機関から→小麦生産者→集荷→製粉→加工者→消費者と麦のバトンを渡さないと消費できない作物、「美味しいパンのその先に北海道十勝の小麦畑を感じてくれたら」と前田さんは想いも膨らんでいる。
十勝産にこだわるパン屋、満寿屋商店の挑戦
帯広に前田農産の小麦を使用したパンを製造・販売するパン屋があると聞き、訪ねた。1950年創業の「満寿屋商店」。店では、小麦粉のほか、酵母や水、乳製品などパンづくりに必要な材料はすべて十勝産だという。店内には生産者の写真がずらりと並ぶ。まさに、十勝の生産者とつながるパン屋なのだ。
満寿屋商店は、第1号店となる「満寿屋商店 本店」を帯広に開店し、その後、十勝地方を中心に支店を広げ、地元では知らない人のいないパン屋にまで成長した。店舗で提供されるパンはすべて十勝産の小麦粉を使っている。
いまでこそ、国産小麦粉にこだわるパン屋は少なくない。しかし、満寿屋商店が抱く「十勝産小麦粉100%」の思いは、20年近く前から始まっている。
「十勝産小麦を使うようになったのは1989年ごろ。当初は、輸入小麦を使うのが常識。パンはもともと海外の食べ物という考えもあり、業界内でも国産小麦への関心はほとんどありませんでした」。
そう話すのは満寿屋商店の代表を務める、杉山雅則さん。「十勝のパン屋なら十勝の小麦粉を使うべきだ」と、固い決意のもと、親子二代に渡る取り組みは、2012年にとうとう実現する。
原材料の産地を限定することは相応のリスクがともなう。十勝の小麦が不作だった場合、その影響が店の経営にも及んでしまうからだ。小麦粉の切り替えは、工房をあずかるパン職人からも不満が漏れた。
「十勝産小麦100%への切り替えは非常に悩みましたよ。踏み切れたのは、今後20年くらいは安定供給の目処がついたから。また、国産小麦と輸入小麦で製パン技術が異なり、質にバラつきが出やすい国産小麦は、高度な技術が必要になります。技術的な切り替えも長い時間を有しました」。
杉山さんの決意は吉と出たか、凶と出たか。その答えは、開店直後からお客さんでにぎわう店内を見れば明らかだ。
「十勝産小麦は、デンプンがもちもちしているから、やわらかく甘みのあるパンに仕上がります。さらに、おなじ十勝産食材と掛けあわせると相乗効果でより美味しくなる。生産者と製造者が顔の見える関係にあるのが十勝の強みですね」
2016年、満寿屋商店は東京目黒区に「満寿屋商店 東京本店」を開店。ここでは前田農産のゆめちからを使用した食パンを開発。もっちり、しっとりした生地のゆめちからの食パンは、都内のパン好きからも高い評価を獲得している。
杉山さんは今後も都内でも取り扱い店舗を増やしていくつもりだ。小麦農家のパートナーシップ制度も設立し、提供農場には前田農産の名も挙がった。十勝産小麦の価値は生産者、製造業者によってゆっくりと、しかし着実に醸成されていくのだ。