海で生まれて山で育つ。和菓子文化を支える山岡町の細寒天
自然の力を巧みに活かしてつくる山岡町の「細寒天」
岐阜県で細寒天づくりが始まったのは1925年(大正4年)のこと。農業の副業として恵那市岩村町で始まり、1931年に生産の拠点がお隣の山岡町へと移転した。この地で細寒天づくりが発展したのは、気候条件が適していたことに他ならない。伝統的な細寒天の製法では、ところてんの水分を凍らせてから乾燥させる、凍結乾燥の工程が繰り返されるが、山岡町は晴天率が高く雨や雪が少ないうえ、真冬は−5〜10℃の厳しい寒さになるため、この凍結乾燥の工程が天然の力で行えるというわけだ。
細寒天の主な役割は、和菓子の製菓材料。ちなみに棒寒天(板寒天)は家庭用、粉寒天は工業用として食品のほか化粧品にも使われる。今回訪れた「水野寒天」の細寒天は、和菓子の老舗「とらや」も御用達の逸品。最近は安価で扱いやすい粉寒天が広がってきているが、和菓子に仕上げた時の味わいが全く違うそうだ。
「細寒天は天草100%ですが、一般的な粉寒天にはオゴなどの原料も混じります。たとえば羊羹に仕上げると、粘りが強い粉寒天は甘ったるく重く感じてしまうのに対し、細寒天で作ると上品な甘さとさっぱりとした口当たりになり、何口でも食べられるような味わいになります」
と、代表の水野元彰さんは話す。さっそく、こだわりの製造工程を見せてもらうことにした。
自然の寒さと太陽の光が良い細寒天をつくりだす
水野さんの寒天づくりのシーズンは、毎年9月から4月頃まで。まずは原料の天草を洗浄し、釜で12時間かけて煮る。一言に天草といってもマクサやヒラクサなどいくつか種類があり、それぞれ味わいや粘りの強さなどが違う。水野さんは和菓子づくりに最適な硬さと味わいに仕上げるため、10種類以上の天草をブレンドして使っている。
煮る作業を終えたら、煮えた天草と煮汁を袋に入れ、コンクリートの重しで圧をかけながら濾過。絞りすぎると不要なエキスまで出てきてしまうため、機械は使わないそうだ。
濾過したものを固めて、ところてんにしたら、大きな天筒で「突出(つきだし)」をして細長い形状に整形。均等に乾くように、手でしっかりとならしていく。
細寒天づくりで最も重要な工程が「凍結乾燥」だ。ところてんは保水力が高いため、中まで完全に乾かすために、凍らせて乾燥させてを繰り返す。この工程で活かされるのが山岡町の気候だ。気温が下がりきらない時期は冷凍庫を使うが、氷点下になると外に出し、上から氷をのせて表面から凍らせる。昼になると太陽の光で凍った部分が溶けて乾き、夜にまた凍る。これを2週間ほど続けると、細寒天が完成する。
ご飯に混ぜて炊くと美味。寒天の存在を広めたい
和菓子づくりに欠かせない細寒天だが、地元では家庭料理にも気軽に使われる。水野さんのおすすめは、お米を炊く時に細寒天を混ぜること。「細寒天と一緒に炊くと、お米がコーティングされて艶が増し、冷めても美味しいお米になりますよ。ぜひ試してみてください」
味噌汁やサラダの具に入れる食べ方や、山岡駅に隣接する「かんてんかん」では、細寒天を麺にしたラーメンも発見。ヘルシーでとても人気なのだそう。
そんな山岡町の細寒天だが、最盛期には100軒以上あった工場も現在はわずか7軒に減少。その背景には、扱いやすい粉寒天の台頭や、気候変動によって昔のような製法を続けるのが難しいこと、天草の入手も困難になりつつあるなど、さまざまな理由がある。水野さんはまず寒天自体の認知度を上げようと、自社サイトでの販売のみならず、マルシェなどにも出店しているそう。
「最近は寒天の存在自体を知らない人も多いので、寒天って何? ということをまず伝えていくことが大切。和菓子業界の方も、細寒天を守ろうとサポートしてくださっています。私たちもいつまで続けられるかわかりませんが、ただただ造っていこうと思います」と、水野さん。
これからもおいしい和菓子が食べられるよう、細寒天づくりが続いていくことを願うばかりだ。