代々受け継がれ続ける、島の発酵食「くさや」
くさやの秘訣は、300年伝承される「くさや液」
伊豆諸島の新島は東京本土から南へおよそ150km、人口およそ2,000人の小さな島だ。くさや発祥の地といわれ、国内で生産されるくさやの大半が新島産だ。くさや製造業者が現在でも6社残っている。そのうち5社が共同で使用し、新島のくさや製造の拠点とされているのが、くさやの加工施設及び物流センターである「くさやの里」だ。
生産者の1人、池太商店の代表、池村遼太さんがくさやの製造工程やその歴史を教えてくれた。
その製造方法はいたってシンプル。材料は魚と塩とくさや液のみ。池村さんの工房の地下貯蔵庫には、2つのタンクでくさや液が保管されていて、蛇口をひねればくさや液がでてくる。その日漬け込む魚の量に合わせて塩を足し、くさや液の塩分濃度を調整する。通常の干物づくりは18~20%の塩水を使用するが、新島のくさや液は8%程度と少ない塩分でつくられる。
くさやに加工する魚で、新島で一般的なのは近海で大量に獲れるアオムロアジ。まな板の上で一尾ずつ魚の内蔵を手作業で取り除いて開いて水洗いし、それを「くさや液」に1〜2日間漬け込んだ後、乾燥室でしばらく乾燥させれば出来上がる。
乾燥させたくさやをパックに詰めて販売するほか、くさやは焼くときに一番匂いが強く、自宅などでは焼くことがはばかられるという声も多いことから、あらかじめ焼いたくさやを食べやすいようにスティック状に削った商品も製造している。
このくさやづくり、味の決め手となるのは「くさや液」だと池村さんは語る。
「くさや液にちゃんと元気に働いてもらえば、美味しいくさやができます。くさや液は生き物のようなものなので、しばらく魚を入れないでいると元気がなくなってしまいます。一方、しっかり休ませることも大事なので、タンクは1日おきに交互に使うようにしています」。
顔を近づけるとツンと鼻に抜ける強いにおいを放つ、くさや液。くさやをくさやたらしめる、その不思議な液体の中身は一体何なのか。話は遥か300年以上前まで遡る。
新島でくさやづくりが産業として始まったのは、江戸時代といわれている。魚食文化の島では、冬の間は風が強く漁に出られないことから、夏に大量に獲ったアオムロアジを塩水に浸し、天日で干して保存食とする風習があった。しかし、当時、塩は幕府に上納する年貢代わりであり、島で最も貴重な資源であったため、一度使った塩水を捨てずに繰り返し繰り返し水と塩を継ぎ足しながら使い続ける必要があったという。
同じ塩水を使って魚を漬け込んでいくと、次第に、魚の菌やエキスが塩水に馴染み熟成されていき、出来上がった干物の旨みと風味が増していくことを発見。こうしてくさやが生まれたというのだ。
その塩水はやがて「くさや液」として、新島の各生産者や各家庭に伝承され、それぞれ使用され続けて、現在に至るそうだ。
「うちのくさや液も起源は300年以上前で、それをずっとアップデートしながら使っています。つくるのに300年かかってしまうし、同じ液はもう二度とつくれない。生産者ごとに使い方や保存方法が異なるので、菌の量や塩分量も変わって、それぞれのくさや液に個性があるのです」。
池村さんは、祖父の代から続く3代目。高齢化が進む島のくさや生産者の中では30代と一番の若手だが、海外での販路拡大に向け積極的に準備を進めるなど、強い信念を抱きながら日々くさやづくりと向き合っている。
「くさやをこの島に残してくれた先代の方々には本当に感謝の気持ちしかないです。それで今、自分たちは生かしてもらっている。ちゃんと次の世代にもこの文化を引き継いでいくことが、僕らの役割だと思っています」と、池村さんは語る。
ユニークなアイデアでくさやを発信する
新島で生まれたくさやづくりは、その後周辺の島々にも伝播し、伊豆諸島全域の郷土料理として根付くことになる。しかし、現在では島々の人口減少に伴い生産者の数が減り、独特の臭いが話題となって敬遠されることも増え、くさや離れが起きていることも現実だ。
そうしたなかで、くさやの魅力をより多くの人に伝えるために様々なアイデアで活動する新しい後継者も生まれている。
八丈島のくさや生産者の1人である藍ケ江水産の加藤幸さん。静岡県沼津市出身の加藤さんが八丈島に移住してきたのは23歳の時。建設現場や飲食店で働いているさなか、ひょんなことからくさやに出会い、その魅力にのめり込むうちに、自らくさやを生産販売する目標を抱くようになったという。
「地元のお母さんたちからくさやを振る舞われることがよくありました。初めて食べた時は臭いが強烈で苦手だったのですが、何度か食べているうちに、あれ?臭いの先に旨みがあるぞ、と気付いて、これはすごい可能性を秘めた食べ物なんじゃないかと考えるようになったんです」。
その後30歳の時に、縁があり地元の水産加工会社と、貴重なくさや液を譲り受けた加藤さん。明治時代から120年以上受け継がれてきた「くさや液」と日夜格闘しながら、くさやづくりを習得していった。最初はどうしても味に振れ幅が出てしまい苦戦続きだったそうだが、3〜4年後には安定して美味しいくさやがつくれるようになったという。
「くさやはくさや液の管理がすべてだと分かったのです。無数の菌が混在する生き物なので、製造しない時でも魚を漬け込んであげないと活性化せず、発酵が弱くなります。撹拌して空気を含ませたり、常に面倒をみて耕してないと美味しいくさやができない」。
加藤さんはくさやの製造だけにとどまらず、くさやの美味しさや楽しみ方をできるだけ多くの人に提案したいと、八丈島の工房にユニークなくさや料理を提供する食堂を併設したり、都内に日本で初となるくさや専門バーをつくるなど、様々なアプローチでくさやの魅力を発信し続けている。
「ピザやアヒージョなど、新しい食べ方でくさやを提案することで抵抗が和らぐかなと思っています。かつて自分がそうであったように、最初は違和感があったとしても、食べているうちに好きになると思うんです。もっと幅広い世代にくさやの魅力を知ってほしいですね」と、加藤さんは語る。
その昔、必要に迫られ、塩を節約するために同じ塩水を使い回すことで、偶然に生まれた発酵食品、くさや。食す機会があれば、ぜひ島の歴史が詰まった旨みを噛みしめて欲しい。