五節供を味わう「1月7日、人日の節供」
そんな疑問や、人日の節供の由来について、一般社団法人和食文化国民会議理事の大久保洋子さんにお話を伺った。
日本と中国の文化が融合する「人日の節供」
日本人にとって1年のなかでも特別な意味を持つ1月1日は、新年を迎える正月行事が普及していたために、人日の節供は重日ではなく1月7日になったともいわれている。しかし、大久保さんは「実はそれだけではない」と、その理由を教えてくれた。
人日の節供は、元日から8日の各日に「鶏、狗、羊、猪、牛、馬、人、穀」をそれぞれ占うという中国の風習にちなんでいるといわれている。六世紀頃の中国中南部の荊楚(けいそ)地方の風俗を記した「荊楚歳時記」には、「正月七日を人日となす。七種の菜を以て羹(あつもの)を為る」とある。これは人日の日に七種の若菜を羹(汁物)にして食べると年中無病でいられるという俗信を伝えている。
そうした中国の風習とは別に、日本では七日節会と呼ばれる、1月7日に朝廷で催される宴会があった。節会とは節日に朝廷でおこなわれる宴会のことで、1月1日の元日節会、7日の七日節会として白馬(あおうま)節会、16日の踏歌(とうか)節会、5月5日の端午節会、11月の豊明(とよのあかり)節会の五節会が主とされた。七日節会の始まりは奈良時代の1月7日から数日に及んだ宴が始まりとされ、宮中では白馬節会が七日節会の公式行事となった。これは年頭に7匹の白馬を見れば、年中の邪気を除くとされるもので、中国の「礼記」にも記されている。
同時に、日本では平安時代からこの季節に若菜摘みがおこなわれていた。「小倉山百人一首」にも光孝天皇が皇子時代に詠んだとされる「君がため、春の野に出でて若菜摘む」という歌や、平安末期の歴史書「扶桑略記(ふそうりゃくき)」には 「宇多天皇寛平八年閏正月六日の宴あり」という若菜摘みに関する記述がある。
もとは正月の子の日(十二支の子にあたる日)に「供若菜(わかなをくうず)」という若菜を献上する朝廷行事だったが、次第に1月7日に定められ、「供若菜」は平安時代中期ごろ貴族社会で盛んにおこなわれるようになり、その様子は「枕草子」にも記されている。
このように中国の風習にある羹も、日本の風習である若菜摘みも、「冬に積もった雪を割って生える若菜の生命力を体内に取り入れ、邪気を払う」という意味がある。こうした共通点を持っていたために文化として融合し、宮中行事として定着していった。
人日の節供の行事食「七草粥」
「人日の節供」の名に馴染みは無くても、1月7日と聞くと「七草粥」を思い浮かべる人は多いのではないだろうか。しかし、前述の風習で食文化としては、中国においては羹と呼ばれる汁物、日本においては若菜とされている。それではなぜ七草粥が人日の節供の行事食となったのだろうか。それは、宮中行事だった人日の節供が、庶民にまで広まったのが江戸時代だということが関係している。
「私たちは体調がすぐれないときにお粥を食べるという意識が強いですが、江戸時代の人々にとっては冷や飯を粥にすることは日常的な食べ方でした。お正月で疲れた胃腸をいたわり、季節の若菜を入れた粥にするというのはごく自然な取り入れ方だと思います」と、大久保さん。
こうして人日の節供の行事食として定着した七草粥は、次第にそのつくる工程が儀式化されていったという。
「江戸時代の中・後期になると、一家の大黒柱が正装して、若菜を7種、包丁やまな板などの調理道具を7種そろえて、囃子言葉をうたいながらトントンと音を出して若菜を叩くという儀式的な行事になっていきました」。
各地で少しずつ異なるものの、「七草なずな、唐土の鳥が 日本の土地に 渡らぬ先に ・・・※」と、いった囃子言葉が全国に伝わっている。
※・・・には亢觜斗張(こうしとちょう)、なずな七種はやしてほとと、ストトントンなど様々ある。
各地で違いがあるのは囃子言葉だけではない。現在、七草粥に入れるのはセリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロとされているが、七草はすべてそろえず、江戸では1~2種でつくり、ナズナ売りからナズナを買い、小松菜や大根を入れていた地域もあったという。
粥に入れる食材については地域ごとに特色があり、東北地方ではホンダワラ(海藻の一種)、クシガキ(柿の一種)を入れたり、広島県や熊本県では七草粥に餅を入れて食べる文化もある。
最後に、大久保さんはこうした七草粥に入れる若菜について「“ゴギョウ”は“ハハコグサ”とも言い、母子草と書きます。新しい年の始まりに我が子の厄を払い、健康を祈る行事に、親子を思い起こさせる母子草が使われているのはとても素敵ですよね」と、話してくれた。
1月7日の人日の節供では、身近の人の健康を祈って七草粥を食卓に並べてみてはいかがだろうか。