五節供を味わう「9月9日、重陽の節供」
今回は重陽の節供について、一般社団法人和食文化国民会議、調査・研究部会幹事の清絢さんに行事の歴史や特色、食文化についてお伺いした。
中国の季節行事が日本の宮中行事へ
9月9日の重陽の節供は、陰陽五行の思想に基づく暦法で、奇数の重なる日を厄日とした古代中国の伝統行事に由来する。それが日本に伝わり、時代を経るなかで、季節の節目を祝う行事として広まっていった。
重陽の節供の起源は中国の故事「桓景(かんけい)の物語」にちなんでいるといわれている。「桓景の物語」とは、中国に住む桓景という男が、神通力を持つ男から「次の9月9日に一家に災難が降りかかる。回避するためには高い山に登り、そこで菊酒を飲みなさい」といわれ、その助言に従い、災難から逃れたという物語。こうしたことから中国では9月9日は災難を払うために、野外に出たり、丘に登って飲食をおこなう風習が伝承されてきたといわれている。
日本には奈良時代(710〜794年)頃に伝わったとされ、古い記録としては、「日本書紀」の中に、685年9月9日に宴をしたという記録が残っている。また、平安時代(794〜1185年)になると重陽の節供は宮中行事として毎年おこなわれ、慣例化したという記述がある。「平安時代の中期から、貴族の間で菊の花の出来映えを競い合う「菊合(きくあわせ)」を行ったり、それを鑑賞しながら『菊の宴』を催していたという記録があります。また、『枕草子』では、「着せ綿(きせわた)」をおこなっていたことも書いてあります。これは重陽の前日に、菊の花に真綿をかぶせておき、菊の香りと朝露を染み込ませ、それで顔などを拭くと若返りの効果があるというもので、9世紀末頃から貴族たちにはそうした習慣があったようです」と、清さん。
庶民文化と重陽の節供の歴史
江戸幕府が五節供を定めると、古代中国に倣ったのか定かではないが、幕府は重陽の節供をもっとも公的なものとして重視した。しかし、他の節供に比べると、民間にはあまり定着しなかったともいわれる。実際はどうだったのであろうか。
「実は、鎌倉時代(1185〜1333年)以降は、重陽の宴はさほど盛んにならなかったようです。江戸時代に五節供が定められて以降、江戸では菊を鑑賞する『看菊(かんぎく)』が流行するなどしてにぎわった時期もありました。しかし農村では、その時期が米の収穫期にあたったため、菊を愛でる都市的な習俗よりも、村の収穫祭りなどの収穫儀礼に重きをおいていたと考えられます。明治以降は江戸でも徐々に廃れていったようで、『東京年中行事』(1911年)では“今は余りに重きを置かれて居らぬもの”、『東京風俗志』(1899年)では“重陽の節供は殆ど廃れぬ”と記されています」。
江戸時代に広まった菊を鑑賞する文化は、今でも各地で菊人形祭りなどの文化としては残っており、重陽の節供の名残を感じられるというが、食についてはどうなのだろうか。
重陽の節供の行事食「栗飯」と「菊花酒」
かつては宮中で菊の宴を催すなどの盛り上がりを見せていた重陽の節供だが、「正直、菊を鑑賞する文化の方が栄え、食べ物については他の節供と比べ多様性に劣る」と、清さん。
そうしたなか、重陽の節供を代表する行事食として伝承されてきたのは「栗飯」と「菊花酒」だという。
栗飯は、栗と塩を混ぜて炊いたものだけでなく、赤飯に栗を入れる地域もあったそうだ。ほかにも東京では焼き栗にしたり、煮しめに栗を入れたりして食べた記録がある。また、「進物便覧」(1811年)によると、重陽の祝いに栗を贈り物として贈る習慣もあったようだ。
菊は長寿を願う花ともいわれ、古代中国に倣い日本でも宮中行事だった平安時代から菊花酒として花びらを酒に浮かべ、花の香りをうつして楽しんでおり、江戸時代にも飲まれていた。また、江戸時代になると一部の地域では食用菊も登場する。たとえば、「坂本菊」を栽培する滋賀県では、松尾芭蕉が菊なますを食べたことを句に残しており、黄菊の一種である「阿房宮(あぼうきゅう)」を栽培する青森県では、昭和初期ごろ重陽の節供に菊のなますが食べられていたという記録が残っている。今でも新潟県では食用菊の栽培が盛んで、秋の食卓には菊の酢の物が色鮮やかに並ぶ。
また、「各地の秋の収穫時期や“おくんち”と呼ばれる収穫祭の時期に重陽の節供の要素が加わり、いまに伝わる料理もあります」と、清さんは教えてくれた。
関東地方では、三九日茄子(みくにちなす)といって、「“みくにち”と呼ばれる9月9日,19日,29日に茄子を食べると中風(ちゅうぶ:現在では脳出血などによっておこる後遺症のことをいう)にならない」という言い伝えがある。九州地方では、秋の収穫祭がひらかれる新暦の10月にかけて、「くんち料理」と呼ばれる収穫を感謝する料理が振る舞われる。
他の節供と比べ、庶民にはあまり普及しなかったといわれる重陽の節供だが、その要素はいまも地域の暮らしや食文化に結びついているようだ。