子どもの成長を願う七五三の千歳飴
七五三の由来となった、子どもの成長を祝う節目のお祝い
七五三の行事が日本で広まった経緯や、千歳飴を食べるようになった時代背景について、食文化研究家の大久保洋子さんにお伺いした。
「昔は、子どもが育つことはとても難しいことでした。死産が多く、生まれてきたとしても幼い頃に亡くなってしまうことも多かったため、節目毎に子どもの成長を祝う行事がたくさんあったのです」と、大久保さんは語る。
現在では、3歳と5歳、7歳をまとめた行事である「七五三」も、本来は「髪置き(かみおき」「袴着(はかまぎ)」「帯解き(おびとき)」とそれぞれ別の行事だった。
「それぞれいつ始まったのかはっきりしたことは分かっていませんが、最も古いもので平安時代に袴着の古来の呼び方である、着袴(ちゃっこ)の儀礼が公家の間で行われていたという記録が残っています」。
袴着とは、5歳の年に子どもが初めて袴を身につける儀式のこと。平安時代の史料に、陰陽師の占いで吉日を選んで開催されたとの記述があり、家ごとに吉日を選んで盛大に行われていたようだ。
次いで、3歳で行う髪置の儀式が、鎌倉時代(1185年頃〜1333年)の歴史書『吾妻鏡(あづまかがみ)』に、「生髪(せいはつ)の儀礼」として記録に残っている。当時は、生まれてから3歳までは髪を伸ばさずに剃っており、3歳になって初めて髪を伸ばし始める際の儀式として行われていた。
そして、室町時代(1336〜1573年)には、子どもが初めて帯を締める「帯解きの儀式」が始まったとされる。簡易的に着られるように付け紐がついた子ども用の着物を脱ぎ、大人と同じように帯を締めて着物を身に着けるというのは、1つの成長の節目であった。今では、7歳の儀式とされているが、かつては9歳で行うことが多かったようだ。
「いずれの儀式ももともとは男女の区別もなくおこなわれ、お祝いをする特定の日も決まっていなかったようです」と、大久保さん。
江戸庶民の間に広がる、七五三のお祝い
こうして公家の間で始まった儀式は、武家が統治する世の中になると、武家の間にも広がっていく。庶民の間でも七五三の記録が出てくるのは江戸時代(1603〜1868年)に入ってからのこと。
「江戸時代には、都市部を中心に庶民の間でも七五三が行われていたようです。3歳、5歳、7歳のお祝いを総称して七五三と呼ぶようになり、11月15日にお祝いすることが定着してきたのも、江戸時代に入ってからと思われます」。
江戸時代、戦がなく平和な時代になると商人が身分は低い状態であっても、裕福な層として台頭してきた。そして、江戸中期になるとその裕福な商人たちが、着物にお金をかけるようになっていったという。
「七五三のお詣りの服装も次第に着飾るようになり、子どもだけでなく、付き添いの母親や使用人まで、華やかな出で立ちで練り歩きました。その様子はさながらファッションショーのようでした」。
しかし、あまりに華美になった装いに対し、江戸幕府が奢侈禁止令を出した。着るものが制限されるようになると次第に七五三のお詣りは廃れ、七五三にとらわれない形で、各家庭・地域ごとに子どもの成長を祝うようになっていったという。
「七五三が行事として復活するのは、第二次世界大戦後、日本人の生活が安定してきてからのこと。その際に、袴を着るのは男の子だから、袴着は男の子の儀式。帯をつけるのは女の子だから、7歳は女の子のお祝い。3歳はまだ小さいから男女ともにお祝いとなったようです」と、大久保さんが教えてくれた。
江戸のヒット商品「飴」から生まれた千歳飴
七五三にまつわる食べ物として、思い浮かぶのは千歳飴だろう。千歳飴の発祥については諸説あるが、どうやら江戸の飴売りが仕掛け人となったようだ。江戸時代は飴売りが子ども相手に流行し、大通りや神社の境内には飴売りが軒を連ねていた。
「砂糖が貴重な時代になぜ庶民が甘いものを食べられたのかというと、日本で当時つくられていた飴は、麦芽を使ってでんぷんを糖化させた飴、今でいう水飴だったのです。」
水飴の歴史は古く、奈良・平安時代から食べられており、薬としても用いられていたという。
それを商才にたけた江戸の飴売りたちが、「寿命糖」や「千年飴」「千歳飴」など長寿にあやかった名前を付けて販売するようになっていった。
一説では、1615年に大阪の平野甚左衛門(ひらのじんざえもん)が江戸に商売をしに来て、浅草寺の境内で千歳(せんざい)飴を売り出したのが始まりといわれる。これが長寿の飴として人気となった。最初は「せんざいあめ」と呼ばれていたものが、同じ漢字で読み方の違う「ちとせあめ」に変わっていったとされる。
もう一説は、元禄・宝永年間(1688〜1711年)に浅草で七兵衛(しちべえ)という飴売りが、千年飴または寿命糖という名前で飴を売りだしたという説で、柳亭種彦(りゅうていたねひこ)の随筆『還魂紙料(かんごんしりょう)』(1826年)に記載がみられる。
「千歳飴を売り始めた当初は、子どもだけを相手にしていたわけではありませんでしたが、飴は子どもの好物だからと、七五三に結びついていったのではないでしょうか」と、大久保さん。
もともとはお祝いする家が千歳飴を購入してお裾分けする形式だったが、次第と神社の境内で販売するようになり、いつしか参詣した際に神社からもらうようになっていったという。
戦後は全国どこでも七五三が行われるようになり、千歳飴も全国に普及していった。
伝統を引き継ぎつつ変化を遂げ、いまに続く千歳飴
「千歳飴の原料となる水飴は、練りながら伸ばしていくと空気を含んで、色も白くなっていきます。量も増えて食感も変わります。これに食紅を入れるとピンク色の飴ができます」。
千歳飴の基本の形状は、長さ1m以内で直径1.5㎝と決まっているようだ。いつからこの形になったのかははっきりしないが、『還魂紙料』の挿絵では短い棒状の形に描かれているため、最初の頃の千歳飴とは形が違っているのかもしれない。
「紅白のシンプルな飴が一般的でしたが、飴づくりの技術が向上して、金太郎飴のような複雑な絵柄のものも出てきています」。
七五三に食べる料理としては、千歳飴以外は特に決まった食べ物はなかったようだ。
七五三に限らず、祝いの席では、当時ごちそうだった赤飯や魚を食べることが多くみられた。
江戸後期に諸国の風俗について調べた『諸国風俗問状答』(1815-1816年頃)によると、水戸藩の回答で、「11月は髪置・袴着・帯解・婚礼を行うことが多く、魚の値段が高くなる」との内容の記述がみられ、お祝い膳で魚がよく饗されていたようだ。
お祝いの仕方や祝う年齢など変わってゆく部分もあるが、今に続く七五三のお祝いの根底にあるのは、いつの時代も子どもの成長を願う、親や社会の思いであった。
榮太樓總本鋪
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金太郎飴本店
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