五節供を味わう「5月5日、端午の節供」
今回は、五節供が日本で普及した背景や、その1つとして端午の節供が各地でどのように祝われてきたのかについて、一般社団法人和食文化国民会議理事の大久保洋子さんにお伺いした。(所属・役職は取材時)
太平の世に広がる、庶民が主役の季節行事
五節供とは、一般的に1月7日「人日(じんじつ)の節供」、3月3日「上巳(じょうし)の節供」、5月5日「端午(たんご)の節供」、7月7日「七夕(しちせき)の節供」、9月9日「重陽(ちょうよう)の節供」の5つの節供をさす。
五節供は中国の伝統行事を起源としており、もとは奇数を縁起が悪いものとする中国の陰陽思想に基づき、暦の上で奇数が重なる日を「厄日」として引きこもる日であった。それが日本に伝わる際に、日本の文化や風習が取り入れられたことで、厄払いの要素に加え、季節の節目をお祝いする日本独自の行事として広まっていった。
お供えする食物を意味する、「節供」の語が用いられていた。
五節供が日本に伝わったのは、奈良・平安時代といわれ、当初は貴族を中心とした宮中行事であった。その後、武士が政治の中心となると、貴族にならい武士の間でも節供行事が広まっていく。
そして、庶民の間にも広く普及していくのは、江戸時代に入ってからのこと。徳川幕府が、1月1日のお正月とともに五節供を祝日に制定したことがきっかけだ。この際に、もともと1月1日だった「人日の節供」が、既に1月1日は新年を迎える行事として「お正月」が普及していたため、1月7日へとされている。
「江戸時代になると、徳川幕府の安定した統制が続き、災害や飢饉などや身分階級もありましたが、200年以上も平和な世の中になります。なぜ幕府が五節供を制定したかについては、諸説ありますが、町人文化が花開き、節供行事を庶民とも共有したいという幕府の福祉的な政策の意味合いがあったのではないかと考えられます」と、大久保さんは語る。
その後、明治6年(1873年)に明治憲法下で改めて祝日が制定され、五節供は祝日ではなくなるが、各地で季節行事として生活の中に取り込まれていた一部の節供行事は、明治以降も人々の間で祝われ続けていった。
※第二次世界大戦後の昭和23年(1948年)に祝日法が制定され、5月5日のみ「こどもの日」として再び祝日となっている。
一説によると、民間にこれほど普及したのは、五節供の時期が米作りの時期と重なっているため、当時稲作中心の生活をしていた庶民の間で受け入れやすかったのではないかといわれている。その一方、既に稲作に関連した別の行事が根付いている地域では、五節供は浸透せず従来の行事が残っているところも多いという。
「庶民にとって、節供といえば、特別な食べ物が並ぶお祝いの日でした。江戸時代は、日常的には質素な食生活を送っていたので、節供などの行事でごちそうを食べることによって、普段摂取できない栄養を補給することも出来たのではないかと思います。人々にとっても、めったにないごちそうを食べられる日で、とても心待ちにしていたのでしょう」。
厄災を払う行事から、男の子の成長を祝う行事へ
五節供の中でも、現在、一番日本人の生活に普及しているのは端午の節供だろう。
中国古来の節供文化はその季節の花と結びついており、端午の節供は別名「菖蒲の節供」とも呼ばれている。そこで、厄払いの行事の一環として、菖蒲を浸した酒を薬酒として飲んだり、軒先に菖蒲を飾ったり、菖蒲湯につかるなど、病気や厄災を払う目的で菖蒲が使われていた。
それがいつしか、「しょうぶ」という言葉から「勝負」や「尚武(武を重んじること)」が想起され、男の子の成長を祝う行事として広まっていく。武士が主役の時代には、武士の姿や合戦の様子を描いた「武者絵」や中国故事に由来する厄除けの神様「鍾馗(しょうき)」などを描いた幟(のぼり)が飾られるようになる。
江戸になり、庶民が文化の中心となると、滝のぼりする勇猛な姿から、「鯉」が庶民の間で人気だったこともあり、「鯉幟(こいのぼり)」が生まれ、広く飾られるようになっていった。五月人形も江戸時代に庶民の間で普及していったと言われている。
端午の節供の定番菓子「ちまき」と「柏餅」
端午の節供を代表する食べ物と言えば、「ちまき」と「柏餅」。
ちまきの方が歴史は古く、奈良時代頃には茅萱(ちがや)という葉で米の粉を練って包んだものを、蒸したりゆでたりして食べられていたという。
一方、柏餅が食べられるようになったのは江戸時代に入ってから。当初中に入っていたのは塩餡(しおあん)だったが、江戸時代後半に砂糖が普及したことによって、中身が甘い餡と味噌餡に変わっていったそうだ。
「同じ名前の食べ物でも、時代によって使われていた食材や作り方は違うため、今食べているものが当時食べられていたものと同じかというと、きっと違うものになるのでしょう。現代の人が、当時のものを口にしたらごちそうだとは思えない味かもしれないですね」と、大久保さん。
各地に伝わる端午の節供料理のバリエーション
江戸の年中行事を記した文献「東都歳時記」によると、江戸の町では、端午の節供にちまきと柏餅の両方が食べられていたことが分かる。
一般的に、関西方面では柏餅よりちまきをつくり、関東以北ではちまきより柏餅をつくる地域が多い傾向だが、柏の葉が採れない地域では、「山帰来(さんきらい)」(別名サルトリイバラ)や笹、茗荷(みょうが)、朴(ほお)、あぶらぎなどの葉っぱが使われることも多いという。
「一般に『柏餅』という言葉が普及していますが、これにもいわれがあって、古来、柏の葉は食器代わりに使われていて、『かしわ』という言葉が食器全般を表していました。不思議なもので、身の回りにたくさんの葉っぱがある中で、食用に使える葉っぱというのは長年の歴史の中で決まっているんです。例えば、桜の葉と紫陽花の葉は似ていますが、桜餅はあっても紫陽花の葉は食用に使われません。紫陽花の葉には毒があるそうです。先人の知恵には驚かされます」と、大久保さん。
日本各地でさまざまな葉を用いた餅や団子が存在しており、端午の節供で食べるものだけでも、さまざまなバリエーションがみられる。
新潟の笹団子
新潟では、柏の葉の代わりに笹の葉を使った「笹団子」が食べられている。笹は防腐や乾燥防止の役目があるといわれ、昔から保存食や携帯食の包装に使われてきた。
現在では通年の土産菓子として有名だが、江戸時代に越後国長岡領について記載した史料によると、ちまきと笹餅が端午の節供の際に贈答品として使われており、長岡地域では、現在も三角ちまきと笹団子が端午の節供菓子として定着している。
鹿児島のあくまき
鹿児島では、端午の節供に柏餅をたべず、竹の皮で巻かれた「あくまき」と呼ばれるちまきが食べられてきた。
灰汁で煮込んで作られるため、中まで飴色に色づき、硫黄のような独特の香りがする餅で、きなこや黒蜜をかけて食べる。現在では鹿児島を代表する郷土菓子の一つである。
また、お菓子以外にも、その土地ごとの“旬”の海の幸や山の幸が、端午の節供の行事食として並ぶ地域も多くあり、節供料理を知ることでその地域の文化や歴史を知ることができる。
「現在では食の流通形態も変わり、地域ごとの食文化が薄れてきていると感じます。なぜ、節供の日にこの料理を食べるのかという文化的な背景を知らなければ、ただ好きなものを食べればいいではないか、という考えになりますよね。どちらがいい悪いではなく、なぜその食材が食べられているのかという知識をもったうえで選択することが大事ではないでしょうか」と、大久保さんは教えてくれた。
地域ごとの食文化を背景に独自に広がっていった節供料理。今度の端午の節供では、改めて土地に伝わる節供料理を食卓に並べてみてはいかがだろうか。