オリーブ発祥の島を訪ねて
小豆島オリーブの誕生
明治41年(1908年)、オリーブの苗木が初めて小豆島にやってきた。日露戦争後に海域を広げていた日本では、遠洋漁業で獲れた魚介を保存する良質なオリーブオイルが必要だった。そのため、明治政府は国産オリーブをつくろうと考え、小豆島・三重県・鹿児島県にオリーブの苗木を試験的に植えたのだ。だが、成功したのは小豆島だけだった。オリーブは地中海地方で広く栽培されている。その地中海地方のように、太陽の光をまんべんなく浴び、風通しが良く、雨の少ない気候を持つ小豆島はオリーブの栽培に適していたのだろう。その後、試行錯誤を繰り返し、ようやくオリーブ栽培が本格的に進むようになると、一般の農家でも栽培が始まり、今では日本一の生産量を誇る小豆島の名産品となった。
オリーブの種類は、1000種類以上もあるとされているが、小豆島で主に栽培されているのは、「ミッション」、「マンザニロ」、「ネバディロブランコ」、「ルッカ」の4種類である。
丹精を込めたオリーブ栽培
5年前から、小豆島の休耕地でオリーブ栽培を始めたという協栄岡野の米田俊次さんにお話を伺うことができた。「小豆島には、高齢化の影響もあって管理しきれなくなった畑がたくさんあります。ここも元々はみかん畑の農園をやっていたところでしたが、この土地のオーナーから半分お借りして、オリーブ栽培を行っています。今は200本ものオリーブを植えていますが、最初はものすごく大変でした。なぜなら、ここは島の北側のため、水はけが悪く、粘土質の土だったため、オリーブ栽培に適している小豆島の中では、環境が良いといえる場所ではありませんでした。そのため、オリーブ栽培を始めた時、まずは別の場所から土を持って来て、土壌改良をするところから始まりました」と米田さんは話す。
その後も、米田さんは草をむしったり、害虫がいないかチェックしたりなど、毎日こまめに畑の手入れを続けていき、ようやく4年ほど経った昨年ぐらいからオリーブ栽培がうまくいくようになったという。
「基本的には1人で管理していますが、台風が来るときには樹が倒れないように支えたり、倒れてしまった樹を引き起こしたり、大変なこともたくさんありましたね。去年はじめてまとまった量のオリーブが獲れて、うれしさと、ホッとしたので、思わず涙が出てしまいました」
この畑を始めるまで、オリーブ栽培については専門外だったという米田さんだが、どのようにして、200本もの樹を管理するほどになったのだろうか。
「この小豆島では、数千本規模のオリーブの樹を育てている農園もあるくらい、この土地にはオリーブ栽培のノウハウがあります。そのノウハウを教えてもらうために島をまわって、オリーブ栽培をしている農家の方たちに会いに行きましたね。皆さんからは多くのことを教えてもらいましたが、共通していえるのは他の農作物と一緒で、作り手がいかに手をかけているかどうかがオリーブ栽培に直接反映されるということ。その分、実ができたときの喜びはなんともいえないものがあります」。小豆島にはじめてオリーブが来た時も、島の人は、米田さんと同じ情熱を持ってオリーブ栽培に取り組んだのだろう。
オリーブが小豆島に伝わってから100年が経ち、日本一の生産量を誇るまでに発展したが、米田さんのような取組が増えていくことによって、まだ小豆島にはオリーブの樹が広がっていく可能性を感じた。
次世代に引き継がれる食文化
収穫したオリーブ(収穫時期は10月?11月頃)は、オリーブオイルにするのはもちろん、漬物や天ぷらにして食べたり、化粧品として販売されたり、多くの人に親しまれている。
そして、この小豆島の島民にとって、オリーブは子どもの頃から常に身近にある存在だという。小豆島の小学校では、50年以上前から、1年生が入学する時に、1人1本ずつオリーブの苗木を配っている。そのオリーブの苗木はそれぞれの家庭で育てるそうだ。実際に小豆島には、家庭の庭、街路などいたるところにオリーブが植えられており、島民の生活に溶け込んでいる。また、小豆島町の小・中学校では、給食の揚げ物はオリーブオイルを使って揚げていたり、高校ではオリーブ料理コンクールを開いたりと、島ぐるみでオリーブに親しむ機会を作っているという。
小豆島のオリーブは、今では小豆島を代表する食文化として発展してきた。そして、この小豆島の風土で育つ次の世代にも確実にその文化は引き継がれている。100年前、この小豆島で初めてオリーブの栽培をし始めた島民の懸命な努力は、今もこの地で根付いていることを我々は知ることになった。